あるあり日記

個人的な感覚・感想

為替相場で世界の動向を見てみる

日本においては円安・物価高であり、原材料や燃料に対して特に影響を及ぼしているが、燃料に対しては国による対策が功を奏したのかそれとも他の要因があるのかは自身には判りかねるも、ガソリンにおいてまだ高いものの急激な価格低下が見られる。

政府が燃料費に対して補助制度を初めてしばらくたつが、補助額の増額がありそれがようやく元売りや卸売りに対して懐を温めている様な状態から、スタンドなどへの販売への売り手に対してもようやくと言う所か?

一般の需要より、年度契約などを行っている所では予算を作る段階では見通しは厳しく、どうなるか分からない為に困惑しているであろう。

さて、為替の話としてドル・ポンド高騰とユーロやスイスフランの高騰もあるが、ユーロに対してスイスフランの相場が若干逆転しているきらいが見られ、これまた何かしらの動向か市場経済の活動状況変異が起きている可能性がある。

ただFX・株式などを操作している人もいるので、経済的な動向はいまいち掴めず、海外においても物価高は起きている可能性も否定できず、活発では無いような気がする。

少なからずウクライナ情勢における間接的な負担はこれらを変動させるには十分な動機にはなっているであろうから、今後も円安は継続も海外でも相当の負荷は一般の人々に影響を与えているであろう事でしょう。

スリランカでは国家破綻を起こすし、中東・南米も紛争などで不安定であり、アジアにおいても情勢が怪しいので、日本らしく耐えがたきを耐え忍び難きを忍ぶと言う見守りが継続するであろう。

梅雨明けより梅雨らしい時期が継続している

今年は例年にない程に梅雨明けが早く、真夏日が急に訪れて多くの人々が梅雨時期が短いと言う印象が強かったと思われるも、梅雨明けより平年並みとも言える梅雨らしい時期と気温の高低が継続し、何ともいい加減な気候状況になってしまっています。

今回だけが特別視されそうで何となく嫌な感じはある物の、自然の現象においてはまだまだ人智の操作が及ばないと言う事でしょう。

エルニーニョ現象ラニーニャ現象の具合でこうした気候的にこうなるであろうと解説はされているものの、1億年くらいかけて海流の循環が起きているがたまたま海水温が高い区域が残れば暫くはこうした人間感覚での極端とも言える状況が継続するのも致し方ないとも取れます。

熱い所は熱く、寒い所は寒いのは極端な話、どっちもどっちではあるも局地が残っていれば循環で上辺だけの事象は時代により今後も差異は出てくる事であり、多少のサイクルはずれるも地球上での現象は同じように繰り返されるものであると考えます。

たまたまに現生人類はこの間氷期とも言われる大いなるサイクルの合間にあり、運が良かったと言えばそれまでで、次の生物全体における寒冷化が訪れるまでの間の一つの生命体の歴史に残る生物である事は間違いないでしょう。

地球年齢においてはごく短い時期の生物ではあるが、現在では自然への帰化が余り行われていないので、人類の歴史に空白が残り次なる新たなる知的生命体が地球上で発展した場合にどう評価されるのかが気がかりである。

どうでもよい話ではあるが、長い年月を経てからの未来での考古学や生物学或いは歴史などにおいて誤った評価がなされないようにはしたいと考える。

民主主義国家において信仰の自由がある為に、政教分離を実現する事は不可能である

民主主義時代でなくとも古くから宗教団体における政治への関与と言う物は歴史的においても様々な現象が起こっている。

古く歴史があり様々な事象を経ても尚継続している宗教と、それらの解釈などを変えたり新たなる考えを元に作られてきた新興宗教では歴史的な次元が異なり、特殊な宗教でも時限的な物であったり、ある一定期間において流行る現象も起きているが、信仰の自由が保障されており反社会的で国家において脅威ともなれば少なくとも日本では事象における度合いにより淘汰されてきた経緯もある。

ただ現在ではとある大事件を起こした新興宗教以外では、様々な脅威がもたらされているも国家転覆までは至らない事から監視程度で収まっているので、ある程度の規模を誇る新興宗教団体でもほぼ例外な事象やそれらの被害件数が加増しない限りにおいては淘汰されにくく、また民主主義における選挙にも影響を及ぼすと言うのは信仰の自由と宗教団体の非課税がある限り、司法・立法・行政においては多分に関与できる事となる。

更に既存の古くからある宗教においては逆に存続の危機ともなる様な事態になると言う時代の移り変わり、変遷期、黎明期、低迷期とも言われる始末である。

えてして何かしらの迷いや精神的な不安定な時期においてこうした信仰と言う物は発芽しやすく捕らえられ易く、捕食対象(詐欺同様)となりやすい。

人々にはそれぞれの事情があり、何をもって正解と言う事は無い。

今では特に心(心身)の鍛錬みたいな物、育成していくものが非常に少ない傾向にあると個人的には感じている。

あったとしても与える側も受ける側も適切でない事の方が多くは無くとも極端に偏り過ぎている傾向が見られる。

話は逸れたが、政教分離の観点からしてこうした理想的な思想は社会においては不条理にまでに逸れており、関わりたくなくとも間接的にでも関わらざるを得ないと言う民主主義の数の会得手法と言う状態を変えるのは現実として困難であると言うのが事実である。