あるあり日記

個人的な感覚・感想

形容

この世に存在するものなどを表すには形と言う固定化された様な概念が生じやすい。

多くはと言っていいかは分かりかねるが、流動性が有る無しに関わらずある程度の形容を示す事で物事をとらえ、理解したり伝達したりしている。

また身近にある馴染みのあるような物などで何かしらを代用し表現方法の一つとしたり、名前や番号を付けるなどして区別したりして分類する事もある。

変化の激しい物であっても定まっていない物でも表現としては言い方でザックリとした状態や状況などを示す。

兎にも角にもどちらかと言うとその特定の物であったり、大まかな状況や状態の変化を示したりしているが人々は境界線でもって区切りを付けたがる。

地球と言う惑星を表現する時に、丸いような惑星であると言う形から入り何処までが地球でどこからが宇宙かと言う区切りを付けたがる。

地球にしても太陽にしても銀河にしても宇宙にしても形容しようとする事から、非常に曖昧で分かりにくい物でも境界の表現を付け、イメージしやすくしたり分類できるように固定化するので時に科学の理解や発展を妨げやすい物ともしているようだ。

地球では地表面や大気の幾重もの層から成り立って円形に近いような形でぼんやりしていて、太陽では揺れ動く表面が見られたりと流動的であるが円形のイメージが強く、銀河では幾つもの惑星や恒星などがあるもそれらを包み込むハローなどがあってこれまたぼんやりだが目玉焼きの様なピザの様な感じで、宇宙に至っては光速のおよそ3倍ものスピードでもって今でも風船のように膨張して約1000億光年もの広さがあるとかないとか。

例えが悪いがこんな感じで形容して伝えるが真実はどうかは定かではない。

区切りや境界を示して形容するので観測できない所なんかは本当はどうなっているのかは分からず、科学の発展や時代により表現が変化する事がある。

宇宙の形容なんかでは一様に風船のように膨らんでいると言うイメージが付きやすいも、宇宙の境界がどうなっているのかは定かではないし、宇宙の外と言う部分については色んな諸説があったりして有るとか無いとかの話ともなる。

また3次元空間の4次元時空で捉えるのでどうしても境界や区切りみたいな物を求めたがったり、その外はあるのかないのかの話にも発展して行くし、逆に元々はどうなっていたか始まりはあるのかみたいな事にも関心は行く。

膨らむ前の起点を想像し何も無いにしても有るにしても空間的・立体的に想像してしまうので、自身の様な妄想好きにはよく分からない状態に陥ってしまう。

今日も何だか何を言いたいのかよく分からない状態の意味不明のままで終わりましょう。

雑談

先回はまた時間についてまとまらないプログを書きました。

今回もまとまらない自身の妄想・憶測などを書いていきますので、まともに読まないで下さい。

さて、よくSF映画などでドッペルゲンガーや人工で自身の複製みたいなロボット・アンドロイドや培養してもう一人の自身を生み出したり、何かしらの理由で自身の大半を機械化したり身体などを入れ替えたりするようなしないような話が出て来ます。

医療や技術の進歩によりこれらのごくごく一部の事象については今では現実のものともなっていたり、これからごく一部の事例などが発生したり、新たに研究され進められていくものもあります。

ただ映画などの世界では拡大解釈が激しく、ごくごく一部の事例を大きくし過ぎて出現させていて可能と不可能がごっちゃになってしまいます。

フィクションの話では面白おかしく、想像妄想に興奮する事で楽しめるように作られるのでこのまま現実的な世界に持ってくる事はやや難しいのもある。

科学の発展・進歩は時を追うごとに確実な物ともなるように思えるが、それこそ時には今までの価値観・固定概念などが覆されたり、逆に夢が打ち砕かれたりすると言う事もあって残念に感じる結果にもなる。

人によってはあやふやで解らないままの方がいいと思われるのもあるかもしれない。

さて話を戻し、SF・フィクションの世界観の一部である複製事例を考えてみたい。

前に人工知能と深層学習による会話の話で、人間の未完全な機能・性質のおかげで様々な感性や感情が生まれ、コンピューターにはおよそ及ばない多種多様な生物となっているので、簡易な会話や機械的な会話は出来ても心通わすような会話の成立は見込めないと思うと書いたような書いて無いような話題を取り扱いました。

これらの事例は決して会話だけの話ではなく、仮に完全とも言える様な複製品やほぼ機械の様な体となると言う話が可能として進めても、これは先にも述べた話題に個人的には通じると思っており、科学で言う同性質・同機能・同構造(組成)などであろうとも元の身体であったりとか、元々のその人物の本来の経過を見る事は不可能だと感じる。

その時に取り扱うであろう情報と言う性質も今度また妄想を巡らせたいが、情報がなんであるかと言う事も重要である。

特に移植などではなく、自身と同じ性質などを持つ生物を別に作り出そうともこれは同じであって同じではない。

複製を作った時点で如何なる情報を持とうともその複製品は完成の時が所謂人間で言う誕生であって、経過と共に個体差が生まれる結果となる。

そのオリジナルである元の生体を継ぎ、永遠の命みたいな考えは殊更におかしく、人々が想いを描くような物ではない。

 

感覚と目安

以前に時間の概念と言う非常におこがましい話題を取り上げるも、扱いきれずに無知さをさらけ出すような感じになりました。

今回もその無知さを発揮しながら時間についての個人的な妄想にふけってみたいと思います。

前のプログと重複しますが、最近では時間の概念は無いと言うような話を聞いたりします。

何かを研究・観察・体感・体験するには何かしらの基準・目安みたいな物をたてて、それに応じて変化のある世界では何かしらのその変化を感じたり知ったりする事で、時間の推移・時の流れを日常的に必然的に情報として取り入れて経過を察知・感知しています。

その流れを把握して日頃の生活を文化的に送る為に様々な時の刻みを人々は研究して来ている。

月や太陽の動きから遠い恒星の光の動きを利用して暦を作り、今では元素を利用して細かな時の刻みを計る事が出来き、これまた様々な利用のされ方に発達しました。

しかしながら科学が発達されるにつれて漠然とした言い方だが、いろんな見方が出来るようになって観測者だけでなく他の視点からの観測が異なっている状態も加味され、又は重力が重い場合と光速に近い動きでは時間と言うか時の流れ・経過などが同じ状態下とは相違すると言う観点が置かれ時間と言う物の感覚に対する疑問が生じて来ている。

何事もそうであるが人間中心での物事の目安があり、遅れたり早かったりすると言う他視点での変化の相違に対して価値を見出すとおかしな話となってしまい、何を目安や基点として考えていくのかが揺らぐ。

複数の視点を取り入れ科学の研究を進めるのは良いが、一先ずは地球上にいる人間での基点を元とするのは地球上に住む・地球上で観測する人間が持つのは当たり前である。

この宇宙で地球外に住む知的生命体がいる惑星ではそれぞれの目安があり、それぞれの感覚があるのは当然で相容れるものではない。

時空の歪み(重力)や速度で生ずる相関差は物質の動きに対する経過で示されるが過去未来の位置づけとは異なる。

止まっている・停滞している・動きが無いなどしていてもその時々の計測の仕方や技術により誤差は付き物であるし、時の進み(経過)は必ずある。

科学の本などで時間を取り扱うと良く出てくると思われるのが双子のパラドックスや親殺しのパラドックスシュレーディンガーの猫などが見られ妄想が膨らむ。

ただ科学的な知識は乏しくとも何となくは想像でき思い込みによる誤解も冷静になるとあっけない。

量子の研究発達によりやや過去の事象をごく一部消滅させる可能性とパラレルワールドの世界観も何か出て来そうである。