あるあり日記

個人的な感覚・感想

人々の物差しと基準

人間はそれぞれの時代・背景・生活環境・年齢などにより、個々の基準的な物差しや尺度みたいな物があり、その状況下において変化していく事もあれば頑なにそれを突き通していくような時期もある。

それらを集束してある程度の基準をそれぞれの分野や地域或いは国家単位でもって法律と言う物で一応治めている。

ただ目まぐるしく変化するのは科学技術が発達した現在においてもそうした基準と言う物に対して一定の割合で思考や思想の変化や弊害などにより、基準自体も併せて変化させたり止まらせる或いは変えてはならない物も現状にはある。

えてして識者や知者は返ってその領域から抜け出して新たなる人々に豊かさなどを与える様な事をする人は実は少ない。

何故ならばその現在ある基準をある意味で悪用したり、偽装したりなどの人間本来ある欲と言う物が邪魔をしてしまい、普遍的な人々を扇動・洗脳・説得・習慣・縛り付けるなどして他者を犠牲にしてまでも上がって行こうとする習性が出てしまう。

基準と言っても様々であり、持って生まれた身体、知識や知恵、技術、法則、規格、規制、義務、条例、法律など、何をその人の物差しとするかにより同じようで同じでない、解釈したようで理解できていないなど様々な語弊や弊害が生じて、何かしらの事象が起こる。

同じ家族・兄弟にしても全くもって別人・他人と言っていいような基準(物差し)がある。

便利な世の中になると本来ある人間の持つ力と言う物が失われつつあり、更に本来あるべき物差しの基準自体も特異な物へと変化している。

基準を守ると言うのは簡単なようであるが、実は人々は慣れなどにより物差しが変化していきいとも簡単に基準を疎かにしているし、基準自体も非常に曖昧な広義なものとなっている事が多い為に、それぞれの解釈をして基準があって無いような物も存在する。

基本と言う言葉もそうであるが、基準と言う言葉も厳密にはその時々で異なる為に安易な使い方をしない方がいいと考える。

基準はあっても人々の物差しと言う物は異なり齟齬が生じやすく、誤解や誤認を与えている為に、人間関係・仕事・家庭・地域・国などの単位でおかしな事が起こるのは当たり前と言ってもいい。

現在進行形で起こっている戦争にしても、それを取り巻く国々や人々の言動、見えない所での争いや事件などは何をもって是とするのか?