あるあり日記

個人的な感覚・感想

自然を求めるも殆どは過去に作られた人工的な自然に接しているだけである

ごみごみとした都市部に住んでいるとふと自然に触れると落ち着くと言った心情に囚われる事も少なくない。

また、子どもが育っていく中においての自然との触れ合いによる様々な価値観や出来事、理不尽、脅威などは人による教育によっては育まれない物が多くある。

ところが、都市部や中核都市等にある公園や森林などと、田舎にある自然でも多くは人工的に作られてきた物が殆どであり、田舎の自然と言っても杉や桧と言った植林化されたものがただ単に自然に見えるだけで、また人工的に植林された桜や他の紅葉樹などであり、本来その地域ごとにある異なった原生林と言う物は例外を除いては日本において殆ど無いと言ってもいい。

それらに付随して古くの城跡や寺社などを見ても例外ではない。

形あるもの、特に人工的な建造物などは当然の事ながら利用されなければ崩れていくし、観光的であれば修繕されている事になり自然的な劣化の現象を見る事は少なく、そうした人工的な森林と古代の建造物などを見て自然に触れているや、歴史を感じていると言うのはお門違いにも程がある。

田舎であれ都会であれ漁村であれ河川・海岸においても人工的にコンクリートなどによって自然が既に崩されている状態を見ているに過ぎない。

これらにより植物や森林だけでなく、生物或いは動物などの生態系すらもはや過去のものではなく、酷い場合は海外からの生物が侵食し古来からの動植物が無くなって行っている様を現実的には見ているだけである。

人それぞれ何をもって自然と称するのかは定義的に不明確であるが、少なくとも子どもにおいてはそうした本来の自然と言う物を見せる或いは感じると言った体験などを求める事は非常に難しいと言える。

都会であれば当然だが、漁村や山村地域においてもこうした人工的な整備が進み、今やありもしない様な自然を作り出している所も多くあるし、それらを維持・管理する事も人工的(人為的)であると言うのは分かっていないようだ。

自然がいいみたいな事を言う人が最近では多くいる様だが殆どは本来の自然と言う物を見る事は不可能であると言う状況が正しい答えと言えます。

そして日本のそれぞれの地域にある自然は殆どが過去に人工的に作られた自然である事はどこまで行っても変わりはなく、原生林みたいな物は特定の地域を除いては無いと言っていいと個人的には考えています。

 

自給自足を妨げるのは農水省による組合設立と民間法人を作らせない事である

身近な食料品における持続可能で自給自足と言う食生活を主に妨げている事が既に既得権益ならぬ、農業協同組合森林組合・漁業組合などの半官半民組織の成立により、個の農家・畜産家・漁業・林業などにおいて間接的にかかわる事で物価の価格維持と産出量の規制をする事が当たり前となり、本来あるべき民間業者・法人が直接的に携わる事が出来ない状態にある。

例えば、米・野菜などは産地直送と言われているのは良いが、農家なりが組合組織と規制により法人格を持つ事が出来ず、間接的なコストによる市場への高騰と生産者への引き取り価格の抑制、生産量が過多になると価格下落を下げるようにするために廃棄すると言った事例がある。

畜産業での乳牛における生産量とその用途(加工牛乳・バター・チーズ・乳製品)に対してそれぞれ製造量があらかじめ決められている事が大きな要因であり、本来ならば多く原材料の牛乳が採れたとしても、これまた規制があり多ければ廃棄と言った処分がなされる。

これらは市場或いは小売店に至るまでに価格下落などを防ぐ為、主に組合への利益が優先と言う習慣と規制により、原価が低く各原材料の産業が生活の主としての収入源とならない事で専業を増やさない傾向を生み出している。

本来組合に属している属していなかろう(個人菜園・小規模生産)とも、公には自給自足できないと見られがちであるが、現実には日本では十二分に原材料は足りていると言う現実が存在しています。

更に例えで、米農家出荷価格平均13000円/俵あたりで市場或いは小売店・スーパーなどではその2倍超から3倍までの販売価格となる。

これはブランド米でない場合ですらこうなります。

この差額のコストは産地直送→市場・小売店であればここまでならず、組合を通す事により可笑しな現象が生じています。

外国産が安いと言われるが流通量を規制している限りでは国内にどれだけ多く農林水業原産地があろうとも、価格破綻を起こす事で海外製品が安く感じる傾向にあります。

現実はこの限りではありませんが、少なくとも農林水産業においては規制や基準などを除けば時速は十分に実は足りている現実を見させないと言う傾向が可笑しいと昔から思っていました。

食べ物の供給余りで廃棄 フードロスを無くす新たな開発が返ってフードロスを増やす

近年食べ物の多様化により加工される過程で本来は廃棄されるはずであった原材料の余りを利用した新たなる食べ物を開発する事でフードロスを無くすと言った記事が出ていました。

これは根本からのフードロス事象であるそもそもの問題自体の捉え方が間違っている事により、かなりの誤解的な印象を与えるものと考えます。

自身が見た記事によれば、抹茶を製造する過程で捨てる筈であった茶葉の出がらしを新たに他の食物と加工利用する事で新たなる廃棄問題への解決へと繋がると言った言い回しでもって記載されていました。

しかしながら多くの食べ物による食料の廃棄問題の根本的な原因は、食べ物の商品自体の多様化と供給過多による賞味期限或いは消費期限を迎えてしまうが為に廃棄されると言う問題で、それらを少なくすると言った取り組みの事をフードロスと言われる事であり、そうした廃棄されてしまう食べ物を少なくしようと言う行為がこれに該当する事項であると考えます。

加工や製造過程でもって元々原材料などの本来利用しないで廃棄する物を新たな食べ物として利用する事は、ただ単に新たな商品を開発しているだけに過ぎず、元来の賞味期限や消費期限でもって廃棄されている物についての問題そのものとは論点がズレており、更に言えば新たな食べ物の開発によりまた更なるフードロスが返って増えてしまうと言う非常に頓珍漢な考え方を表示している記事でした。

元々製造などにおける過程で廃棄するもの自体が問題ではなく供給過多による食べ物の余りと賞味期限や消費期限を迎えてしまい廃棄に至ると言った事が本来の問題点であり、結局の所フードロスと言うパワーワードを利用したただ単なる新たな商品の開発と言う事を記事にして、あたかも原材料の不要部分の廃棄を減らすだけで既に弁当などの食べ物として商品とされているものの廃棄についての解決には至っていないので、かなりマスコミが印象操作や勘違いをしている事が想像できます。

コンビニなどを筆頭に24時間営業と言う強力な何時でも食べ物などを購入できる状態が当たり前である現在では、こうした根本であるフードロスを抑える事は非常に困難であり、かと言ってケチって商品の品ぞろえが限定的であれば顧客も選択すると言う事が出来ない状況となり、比較的に豊富である状態を店舗側が維持すると言う傾向があるので、いくら賞味期限の延長がなされた現在であってもそうした加工された食べ物についての廃棄問題はどちらかと言えば商品の多様性が多くなれば多くなるほどに廃棄自体が増えていってしまうと言った現象が起こっています。

これは何も食べ物だけではなくそれ以外の消耗品や日用生活用品或いは家電等においても食べ物ほどではない物の早期買い替えや入れ替えなどにより、過剰な資源の利用と過剰で早期の廃棄等によりロスが起きていると言った事もあります。

また現在では短期間での新商品開発や上位交換商品などの進展が早いのと、劣化や早期不良による交換などがあり、かつてのように長期間一つの物を利用すると言った考え方と言うか習慣は一部を除いては無くなってきている傾向が人間の生活習慣ともなり、様々な資源の過剰な利用が深刻化していると言う事も同様な状態です。

フードロスに限らず持続可能なと言うSGTsにも以前触れましたが、新たなる考え方により実は持続可能或いは再生可能と言った側面だけが取り上げられ、実はリサイクルやごみ処理の過多は偏っている現状が潜んでいる罠とも言えますし、問題点の議論のすり替えともとれる行為が平然と行われていると言う風習が偏った考え方を生んでいる気がします。