あるあり日記

個人的な感覚・感想

経済的な格差と家庭環境の相違ができ更なる選択肢すら見出せない

高度経済成長期又はバブル期などに働いていた家族をもつ家庭においては、子どもの育成でも将来における選択肢の幅が比較的豊かであったので、レールに敷いたような道もあれば、学生時代に勉学に励んだり、新たな道を見つけ起業独立したり、遊びに費やして堕落していようが何とかなっている人々も比較的現在の若者より、環境的に恵まれている時代であったが、バブル崩壊以降や経済的な低迷下における時代の家族を持つ家庭では残念ながら恵まれた教育環境など受けられず、また時代の変化により家庭環境も変化したが為に、ほぼほぼながら時勢と言うよりも運の要素で選択肢の幅が狭い中での環境下で、子どもの育成や学生時代、大学進学、社会進出などがなされている。

現在では格差や蔑視などが問題視されているも、多くはそれらの問題に対してそうした経緯を経験していない、選択肢の幅が大きかった人々が議論をしている事が多い。

更に問題なのがそうした平等とまでは行かなくとも、そうした偏差が異なった次元の人々が新たな問題点を指摘する事により、当の子どもたちへの家庭環境や育成環境、教育環境などが恣意的に新たなる市場材料となっている事が懸念の対象となる。

豊かで文化的な暮らしと言う時代を経た人々は現在の若者や児童における問題解決について動いてい入るもの、異常なまでの偏差により逆に時にはそうした若者や児童における根本的な解決に結びつかなく、議論しているだけと言う口先の事例を見る事が多い。

今も昔も貧富の格差はあれど、現在では大人たちの大いなる事情により子どもたちの環境を整えるどころか、まともな育成すらできず、他者へ責任を押し付けると言った非常に子どもじみた未成熟の大人が完成する事でますます子どもたちの選択肢は狭まる一方である。

以前にも記述したが、テクノロジーに関してはそれでも恩恵を受けている一方で、それらによる弊害も大きなものとなってきている。

そしてそれらの便利でもあるテクノロジーは時として、更なる偏りと格差を生じさせる。

歴史的に戦争や紛争、革命やクーデター、大規模災害、学生運動、ボイコット運動などの気運がある時は変革の時期に入るものだが、現在では例外を除きそうした気運すらある意味で規制されている、起こさせない、起こさせるに至らないと言った集団活動は少なく、平和的な活動に止まり、しかしながら個々では思いもよらない悲惨で短絡的な事件も多くなっている傾向が高い。

到底、子どもたちの事を真に慮っている人々は実は少ないと言える。