あるあり日記

個人的な感覚・感想

有事が起きた時こそ残念だが科学技術は確立・除外されていく

断続的な流行風邪と経済と資源の偏り、犯罪・紛争・内戦・戦争など、自然災害・人的災害など、それらの有事が起きれば起きる程に科学は発達していく。

現在は特定或いは一定の物質に対しても偏向があり、デジタルの発達と共に物に対する価値観も変化してきている。

文化に対する意識的な価値観もそうした物からデジタルと言う数列に置き換えられた事により、共有できてしまったり、物として無くとも満足してしまうと言った傾向が高い。

とは言えども、人間が普遍的な日常生活を営むためにはどうあろうとも物・物質は必要不可欠であり、数列化に変換された物だけで生きていく事は不可能である。

どの産業においても時代と共に廃れたり、新たに起きたり、確立されたり、除外されたり、経年で不測の事態が起こる事も歴史的な科学の発達によるものである。

しかしながら科学の発展と言う物は良い面がある一方で、実は多大なる犠牲のもとで成り立ってきていると言うのが事実であり、特に有事の際にはこうした側面が表面化する事が確実に起こる。

また、科学とは相反する古典的・原始的な手法と言う物も時には必要となる事も多い。

一見平和そうな時代があったとしても、些細な事からそれなりの事象まで何かしらの動きは起きているので、100%を求めること自体が本来はあり得ない考え方と言う物である。

条約・法律・規制・条例・ルール・マナーまで、それなりのモノにしていくには何かしらの要因・要素があり、多数派と少数派と分けてしまう現象も仕方がない。

イグノーベルが後継にノーベル賞を作るきっかけとなった事例・時代の背景などを本来の意義で利用されている事は非常に少ない。

またアルバートアインシュタインやスティーブホーキンスなどが残した言葉の重みも、残念ながら不名誉な利用のされ方がなされている。

トーマスエジソンなどは発明自体は凄かったが、どちらかと言うと経済的な規定・優位性を後へ残してしまった残念な人物に個人的には思える。

話は変わるが、米国の某議員がエジプトのクレオパトラの誘惑に惑わされた(奸計)ローマ帝国のユリウスカエサルにおけるブルータスの事例を挙げて話をしているのはどうかと思う。