あるあり日記

個人的な感覚・感想

感覚と目安

以前に時間の概念と言う非常におこがましい話題を取り上げるも、扱いきれずに無知さをさらけ出すような感じになりました。

今回もその無知さを発揮しながら時間についての個人的な妄想にふけってみたいと思います。

前のプログと重複しますが、最近では時間の概念は無いと言うような話を聞いたりします。

何かを研究・観察・体感・体験するには何かしらの基準・目安みたいな物をたてて、それに応じて変化のある世界では何かしらのその変化を感じたり知ったりする事で、時間の推移・時の流れを日常的に必然的に情報として取り入れて経過を察知・感知しています。

その流れを把握して日頃の生活を文化的に送る為に様々な時の刻みを人々は研究して来ている。

月や太陽の動きから遠い恒星の光の動きを利用して暦を作り、今では元素を利用して細かな時の刻みを計る事が出来き、これまた様々な利用のされ方に発達しました。

しかしながら科学が発達されるにつれて漠然とした言い方だが、いろんな見方が出来るようになって観測者だけでなく他の視点からの観測が異なっている状態も加味され、又は重力が重い場合と光速に近い動きでは時間と言うか時の流れ・経過などが同じ状態下とは相違すると言う観点が置かれ時間と言う物の感覚に対する疑問が生じて来ている。

何事もそうであるが人間中心での物事の目安があり、遅れたり早かったりすると言う他視点での変化の相違に対して価値を見出すとおかしな話となってしまい、何を目安や基点として考えていくのかが揺らぐ。

複数の視点を取り入れ科学の研究を進めるのは良いが、一先ずは地球上にいる人間での基点を元とするのは地球上に住む・地球上で観測する人間が持つのは当たり前である。

この宇宙で地球外に住む知的生命体がいる惑星ではそれぞれの目安があり、それぞれの感覚があるのは当然で相容れるものではない。

時空の歪み(重力)や速度で生ずる相関差は物質の動きに対する経過で示されるが過去未来の位置づけとは異なる。

止まっている・停滞している・動きが無いなどしていてもその時々の計測の仕方や技術により誤差は付き物であるし、時の進み(経過)は必ずある。

科学の本などで時間を取り扱うと良く出てくると思われるのが双子のパラドックスや親殺しのパラドックスシュレーディンガーの猫などが見られ妄想が膨らむ。

ただ科学的な知識は乏しくとも何となくは想像でき思い込みによる誤解も冷静になるとあっけない。

量子の研究発達によりやや過去の事象をごく一部消滅させる可能性とパラレルワールドの世界観も何か出て来そうである。