あるあり日記

個人的な感覚・感想

一定の大量生産品として機能してビジネス・機械化し、衰退した学校教育について

士農工商えたひにんと言った昔ながらの時代から、近代のどんな人であろうとも万遍なく等しく学問と言う物を教える場として寺子屋から学校そして義務教育課程などへと発達し、一定の教育を受ける事が出来る状態で日本の国民全体の知識や技術の底上げが本来の学校における教育の在り方と思う。

近年では製造業や加工業などで科学技術の進歩で大量に生産できる時代が到来し、さも当たり前と言える感覚や習慣とされてきて、学問においても本来あるべき立ち位置から産業のように機械化やモデル化、マニュアル化(統一・学習指導要領)、流動的となり著しく学校における教育に対する価値観が現場も受ける人も変化を及ぼすと言う状態にあります。

現在においては学校教育の是非や義務教育課程の在り方については様々な議論や問題、賛否両論など起きている所ではあるものの、商業化された様なシステムでは残念ながら意義が見いだせないと言うのが一つの回答でもある気がします。

個人的な見解となってしまうが、義務教育課程においては学問もそうであるが集団における規模の小さい社会を体験する機会でもあるので、国・数・英・社・理・道・体などの基礎は勿論、良くも悪くも小規模社会の現象を体感する事で様々な思想や理想・希望・得意・不得意などが一定数実感できる場所と捉えます。

そしてその上で高等教育或いは専門学校等が登場し、方向性がある程度定まっていれば専門高校へ、分からなければ普通の高等学校なりへ行きまた新たな高等の学問とその小社会におけるまた新たなる集団の中の体験をしていき洗練されていく事もあれば、まだ燻ぶったり、社会人として現実社会へ進出したり、更に専門課程へと方向性が本来であればここで定まってくる年齢であると感じます。

更に専門学校・短大・大学・大学院などで名前だけで行く人もいれば、実力で行く人もいれば、キャンパスライフを楽しもうとする人もいれば、高度な知識や技術を磨くために行く人など様々です。

この中で自身のやりたい事や趣味、目指すものがある程度絞れたり、様々な事を複数掛け持ちするのも本人次第で、それらを導けるかどうかの技術が担当顧問・教師・先生・講師・教授であったりします。

現在ではこの過程も機械化に近い状態にあり、更に学習指導要領などの規定(拘束)などで外れた面白知識や雑学などがそもそも教師になかったり、教える機会や相談できる体制になっていないのが現在の教育現場であると考えます。