あるあり日記

個人的な感覚・感想

集客と勧誘手法はどの分野でもほぼ同質と思える

まだ話題となっている宗教においての話であるが、宗教その物自体の問題ではなく集団・団体・組織・法人としての性質に関する事柄であり、類似していたり、集客や勧誘手法などはどの分野においてもやや手法は異なれども同じような性質を帯びており、またそれらの団体や組織においてある程度の影響力と言う物が出てきたりすると、えてして日本では特に習慣的に恒例行事に近い物がある。

お盆や正月なども宗教的な意味合いであるも、習慣的に多くの人々がそれらの一連或いは部分的な慣習を行っている筈である。

更に商業的ではあるが、何とかの日とか特定の慣例行事にする為にどれだけ多くの人々が形式的・どっぷりと行っている姿がメディアなどでも報じているのはもはや慣例としか言えない状況である。

宗教であろうが商業的であろうが、その時代の流行みたいな物を大いに表している事例であると思える。

また、現在SDGsなるサスティナブルが流行したり、不運にも新型流行風邪が大いに日常生活を狂わせたり、それらにより新たなる利権や規制などが生じているのも問題点である。

時代により過去は見逃されていた事象が現在ではやや過激なまで反応し、世論すら偏らせ、宗教でなくとも洗脳に近い状態の現状がおかしいのである。

それこそ宗教的な教えの話に近いが、人はある情報が入るとバイアスがかかりやすく、どちらかと言うと極端に話を持って行きたがると言う傾向が高く、右翼・左翼では無いが同様の偏り集団が生まれる。

勿論、興味が無かったり、リテラシーなど科学的見地に基づき或いは統計的に見ている冷静な人々も存在するも、そうした人々の声と言う物はバイアスが生じてしまうと中立的に物事を見ると言うプロセスが発生しにくい。

またメディアやマスコミなどにおいてもどちらかと言うと極端な情報が高い為に、当然の事ながらそうした知見の元で政治が動かされるプロセスも発生しやすい。

物事をきちんと責任を持ち判断・決断する上司であったり、経営者であったり、議員であったり、元首であったりすればそうした曖昧な状態は出にくくなり、世論もある程度落ち着きを持つ事も不可能ではない。

ただ世の中と言う物はそう簡単なものではなく、どこまでもおかしな資本主義社会に基づいたお金ありきの世界であり、それに伴い肩書と言う物も重要性が何故か増してくる。

この混沌とした現状で生まれてきた、育ってきた子どもたちなどは哀れである。

子どもだけでなくとも全世代で影響を受けた人々は数知れず、科学的な技術が発展するも虚しい感じがする。

日本においては特に欧米と比較する傾向が高い人が多いようで、歴史も文化も地域も地理も異なる条件にも関わらず、同条件の相関性でもって語る人が目立つ。

サスティナブルにおいても同義であろう。

話を戻して、集客・勧誘などの手法においては心理学的に思えば昔とさして相違が無いような気がする。

但し相違点としては、ブーム所謂流行期間と言う物のスパン・期間が物事により短くなっていると言う傾向はやはり科学的な技術における恩恵がもたらしたものでもあり、えてして負の側面・デメリットと言う物も感じざるを得ない。